よいとこ丹波の今田から

西光寺の創建から現在まで

年 号 西暦 内容

欽明帝6
(29)        

  

269

・仏教伝来に伴い、丹波国に八ヵ寺が創建される。
その一ヵ寺が西光寺である。                
丹波国八ヵ寺とは
①平石寺(火灯岩)②弘誓寺()③浄法寺(黒田)④極楽寺(宇土)⑤興法寺(上坂井)⑥瑞林寺(小枕)⑦東明寺(草山)⑧西光寺(本荘)

 

推古天皇35(33)   

  

627

.・清水寺を本丸として五獄山と称し山林修業山岳回峰修業道場を開く。金鶏山西光寺は打上げ道場となる。
五獄山とは
①清水寺(平木)②清応寺(平木)③丹波山(木津)④東光寺山(下小野原)⑤西光寺山(本荘)
この頃、役の子役が大和葛城山に登り、岩洞に篭り修業し、蔵王権現の霊感を感得し難所苦行を重ね、霊山高山を巡り、多紀郡の三岳寺()に山岳修業道場を開き、新金峯山大岳寺と称し12ヶ寺が点在し、大和の大峯山をしのぐ大修験場に発展した。

大化元年

645

・多紀郡では法道仙人が孝徳天皇の勅願所として開いた松尾山高仙寺(南矢代)ほか多くの寺が開基された。

大化2

646

・大化改新により国、郡の境が改定される。なお寺院の言い分を重視して国境が決定された。
大化改新により国、郡の境が改定された、その基準は「山の尾根」、「水分れ」であったが寺院の言い分を重視して決定されている。
西光寺山の尾根は、中畑境であったが、西光寺は優遇され寺屋敷が播磨国に突出して国境線が設けられている。

弘仁年中

810824

・金鶏山西光寺は四十八坊があった。
伝教大師(最澄)の高弟義貞が天台宗布教のため清水寺及び西光寺へ登山したとき、東光寺山に瑞光の昇るのを拝し、山号を日照山と称し堂塔を建立し、東光寺中興の祖として伝えられ
る。その当時金鶏山西光寺は四十八坊があった。

平安時代

・多紀郡の中央部及び西部は天台密教の聖地てあった。
義貞慈覚大師丹仁により多紀郡は天台宗に教化された。篠山川を挟んで南、八上、東、日置、福住は真言宗が点在していた。
多紀郡の中央部及び西部(東光寺、西光寺)は、天台密教の聖地となっていた。

保安5

1125

・西光寺へ大般若経写経600巻が奉納される。
願主は僧快尊、僧行子(天台宗修験僧)藤原氏である。結女に高向氏、清原氏で、都の貴族達の信仰を集めていたようである。
西光寺滅亡のとき、大般若経600巻は、今田町本荘住吉神社に201400巻、鴨川住吉神社に1200巻、中畑住吉神社に401600巻を均等に配分した。
現在今田町本荘住吉神社に201400巻が現存している。

寿永3

1184

・源平三草合戦で、源義経が平家軍を攻めたとき、小野原荘東光寺が焼かれ、平家一隊が金鶏山西光寺へ逃げる。
この合戦により平家軍は破れ、西光寺は焼かれたが、大般若経は類焼をまぬがれた。源義経は京都をたち、亀山、湯の花、天引峠を経て北街道へ、土肥次郎は南街道を進み、小枕で合流し、春日神社に武運を祈り駒馬を奉納し、土肥次郎は真南条街道を、源義経は岩崎、宇土街道を進む。
義経と土肥の軍が見内で合流、不来坂峠では平家の必死の抵抗があると思い、住山谷に兵を隠し丹波の兵を募る。
義経は夜を待って水谷を越え、その日に小野原荘に到着、丹波と播磨の境である小野原、山口に陣をとる。源氏の放った火は、小野原荘一帯が焼土となり、東光寺に燃え移り、八十余坊を焼失する。
神山峠にいた平家方の一隊は、逃げ場を失い金鶏山西光寺に逃げ込んだ。先を急ぐ義経軍は相手とせず、平家の本陣、一の谷、鴨越の坂落しの決行となる。
一の谷合戦終了後、義経の命により多田四郎頼道は西光寺に篭る平家の残党を征伐するため、西脇市の琢本、中畑足丸谷、三草谷の本隊三手に分れ、西光寺山南麓神山峠より攻め登った。
平家方に最後の勝負を決すべく、不動岩の下の谷、勝負谷を攻める。速に平家は西光寺に火を放ち、寺尾を下り、足丸谷をへて敗逃し、ことごとく討死にした。
平家の戦死者を葬った平家塚がある。

文治元年 1185

清水寺の僧理円が、東光寺の復興に着手する。
西光寺も前後して復興に取り組んだ。

建仁2 1202

・大般若経216巻が、願主僧完円結女竹田氏により修理奉納される。

延元元年 1336 ・後醍醐天皇延暦寺に行幸、足利尊氏は京都を占拠する。
官軍北畠頚家は、陸奥より着陣し、勢力を京部に復す。尊氏は丹波路をへて、九州筑紫に敗走するも、大宰府を発し、大挙東上し光明院を北朝として成立させる。
尊氏は、丹波を敗走の途中、四斗谷の山上に懸かる妙見星(北斗七星)を見て、この尊氏に天下を治め給へと祈願した。やがて東上して将軍となり四斗谷の尖り山に妙見菩薩を歓進した。
正平3 1348

・兵乱により大峯山金峯寺は衰退したが、丹波修験山岳連山、特に西光寺は隆昌する。
高師道を総師とした軍勢に四条畷で、楠木正行、正時らが合戦したが、飯盛山からの佐々木道○軍に狭撃され自刃した。
高師道は、吉野山に攻め込み蔵王堂を始め、神社仏閣を焼き払い、この兵乱により大峯山も衰退した。
それにかえて、丹波修験の三岳連山は隆昌した。特に興聖寺(奥畑)、竜蔵寺(真南条)と西光寺(本荘)は修験
修業を通じて、結縁で結ぱれ繁昌した。

貞治6 1367

・西光寺へ有力武士により大般若経283巻、284巻、230巻が修理奉納される。

康暦2年 1380 ・光明庵(曹洞宗)が本荘に建立される
元中元年 1384

・西光寺へ大般若経221巻、374巻、376巻修理奉納される。

康応元年 1389 ・東光寺を和田寺山に移し建立される。
応仁元年 1467

・応仁の乱により西光寺は焼失した。京都を二分して東軍細川勝元、西軍山名宗全両軍が戦う。応仁の乱により、国境にある西光寺は焼失した。

文明14年 1482

・大峰山吉野蔵王堂の坊主頭鬼頭により、丹波新大峰山大岳寺は放火された。

本山の大峰山より、丹波新大峰山大岳寺へ登山の督促があったが、当時の大峰山の山麓吉野山は延元元年より後醍醐天皇の御在所となり窮乏していた。

それに変わり丹波の新大峰山大岳寺は盛況であり、本山の地位を丹波に奪われるのではないかと疑惑を持ち、吉野蔵王堂の坊主頭鬼頭が怒り、山伏を率いて三岳連山に入り堂坊、寺坊、塔堂、宿坊に放火した。
西光寺と懇意であった興聖寺も焼滅した。

・西光寺は戦国時代に焼かれた。赤松の兵が、播磨の旧領の回復を企て播丹国境に乱入し、山名と戦い丹波三岳連山修験場、新金峯山大岳寺以下12ヵ寺を焼討ち、小野原荘に及ぶ。この戦国時代に西光寺も焼かれた。

文明17年 1485

・赤松軍は丹波を巻き込み、西光寺山麓の鴨川、三草、美嚢郡一帯が戦場となり赤松軍の勝利となり、5月3日光明寺本堂前にて、山名軍の戦死者の首実験を行った。

明応2年 1493

・西光寺へ大般若経210巻修理奉納される。有馬郡相野村正林寺(四辻真言宗)は、西光寺へ大般若経210巻修理奉納される。西光寺は、宗派に関係なく信仰されていた。

享禄2年 1529 ・西光寺へ大般若経323巻が最終奉納される。
享禄4年 1531

・西光寺は、波多野の救援軍となった松永に焼かれる。

波多野の救援軍となった松永弾正久秀は、神社仏閤に軍資金を強要した。
申請に応じると禁札を立て、兵の乱入を防いでやると言うのである。

西光寺は主家を失った浪人達が、山伏となり篭り、主僧の言うことを聞かず、一戦を構えようとするものが現れ、ついに松永弾正久秀の要請を拒否した。
恐った松永が、火矢、松明で攻め堂宇、坊舎を焼き排う。

和田寺は、西光寺の二の舞をしないで要請に応じた。
龍蔵寺は軍資金の要請を拒否したが、高石垣をつくり攻めることが出来なかった。

慶長年代

・天台宗金鶏山西光寺が亡び、その後真言宗修験宝螺ヶ山西光寺が創設される。

慶長年代~江戸時代

・西光寺で一週間篭山修業して、燈護摩焼修法を行う

荘厳寺(黒田庄)は、裏山の白山に登り、尾根づたいに高山、猿薮山、平石山、中口山をへて西光寺一宇小堂で一週間寵山修業して、焼燈護摩焼修法を行い、鴨川を経て三草山に登り、朝光寺(久米)に下り、本堂前で紫燈護摩修法を行い打上げとした。

これが仙峰修業(回峰入)と言い荘厳寺と朝光寺が隔年に行われた。
しかし、法道仙人の宝螺は朝光寺で紛失したようである。

元禄時代 1688~1703

・西光寺の奥の院、荒神社への参詣者が多く、賽銭の分配について本荘と中畑がもめ、京都所司代に訴える。

八世紀、奈良時代の神仏集合で仏法僧の三宝を護る荒神として寺の守護神として祭られた。

カマのあるところに神棚をつくり家内安全、商売繁昌の神様として庶民の信仰の対象となり、西光寺が亡びた後も、丹波、播磨、摂津、但馬からの参詣者が多く、賽銭の分配について、本荘と中畑がもめ京都所司代に訴えた。

その結果、荒神社の修理は中畑がするということで、中畑が7割、本荘が3割の配分となった。

ンエ戸時代(始)~昭和10年 1603~1935 ・宝螺ヶ山真言修験場が廃寺となるも、雨乞い秘法は昭和10年頃まで続けられた。

上鴨川では、日照り続きで日焼の年には、宝の法螺
貝をさがし雨乞いした。
この秘法は昭和10年頃まで統けられた。
明治38年 1905

・本荘、畑弥三郎が9年間寵して自給自足の生活をする。

当時、西光寺山は野山といい柴づくり、炭焼きは自由であった。

五輪沢一帯に散乱する墓石、五輪塔を一ヵ所に集め
供養し、周囲に杉、桧の苗を植え、しょうぶ池を整備して鯉、鮒を放し蛋白源とし、しょうぶ谷に畠をつくり、芋、野菜を栽培して自給自足生活をする。

なお、金の鶏を探そうと思っていたかも知れない。

大正3年 1914

・修験者が現れ、のち畑弥三郎死亡する。

お盆も近い夏の暑い日、何時ものように畠を耕していると突然、後より「いつも精が出るのう」と声をかける者があり、そこに威容な姿の修験者が白い髭を胸まで垂らし、真白な頭髪は腰まで伸び、高い一枚歯の下駄を履き、錫杖を持ち、結袈裟、法螺貝を下げ立っている。木の切株を腰掛替りにすすめた。

修験者は、「この山は戦火に滅亡し僧侶、武士の多くが犠牲になり成仏出来ずさ迷っている。
旧12月23日に諸死の精霊を供養したい。
そこで汝に酒肴の用意を頼みたいのだが」。

弥三郎は一つ返事で「お安い御用で」と修験者の方を振り向くと姿は見えず、不思議なこともあるものと思って、鍬を握ったとき、急に身震いし、身体の調子が悪くなり、その後心臓病を患い、再び登山がかなわず約束を気にしながら世を去る。

昭和2年 1927

・寺屋敷跡に畑光太郎が洞ヶ岳西光寺諸死精霊の供養碑を建立する。

畑弥三郎の約束の旧12月23日を祭礼として、毎年縁者が、弥三郎が祀った五輪塔に参拝していた寺屋敷山頂に、畑光太郎が昭和2年3月25日、洞ヶ山西光寺諸死精霊の供養碑を建立した。

荻野貞蔵氏は、永く今田村長を勤め、引退後法華宗に帰依され法華行者になられた。

寺屋敷山頂に、供養碑を建立することになったので、八坪の地を借り受け(酒一升で貰い受けた)なお、供養碑に「御題目七文字、南無妙法蓮華経」と洞ヶ山西光寺諸死精霊と刻んでいる。

昭和25年 1950

・西光寺廃寺後、多可郡の修験者が三宝荒神社で真言修験修業が行われた。

宝螺ケ山西光寺(真言宗)の廃寺後、多可郡の修験者が奥ノ院三宝荒神社に登り、毎年旧暦の7月一夜寵り、翌朝御来光を拝み、大護摩をたき、この真言修験
修業が昭和25年まで行われていた。

昭和38年 1963 ・立林和夫氏が不老の泉を発見命名する。
昭和40年 1965

・南無妙法蓮華経丹波西光寺大山宝塔を建立する。

奈良県高田市、御所市、大阪府八尾市、柏原市の法蓮華経行者一行は昭和38年9月、本荘より西光寺山に登山。

先達某氏の話に戦国時代の昔、我々の先祖が西光寺を焼討ち、その供養に登山したとのことであった。

翌年、中畑部落は中畑より登山し、、西光寺の寺屋敷及び三宝荒神社に酒一斗、米一斗で清め、供物の品々で供養し、昭和40年に中畑部落の協力により、宝塔を建立することができた。

昭和42年 1967 ・西光寺山愛好会を神山茂氏ほか8名で結成する!
昭和52年 1977

・今田町は町木をウバメガシ、町花をサギソウに制定する。

昭和62年 1987

・三宝荒神社を神山茂氏、神山一郎氏、立林和男氏が再建した。

・西光寺山主峯奥院三宝荒神社は風雨に曝され朽ち果て崩壊していた。

平成元年7月6日 1989

・読売テレビ取材。桂ベカコ来山。西光寺本堂跡など、本荘住吉神社放映。

平成5年 1993

・西光寺山の山麓に炭焼窯をつくり炭焼体験が実施された。

西光寺山はウバメガシ(ゼニコメ)植生の北限である。

ウバメガシの炭は備長炭といわれ良質炭で有名である。
炭焼窯をつくり広く炭焼体験を募集し実施している。
・全国サギソウシンポジュームを今田町で開催した。

平成12年3月 2000

・西光寺山三宝荒神社を西光寺山愛好会の方々により再建した。

平成13年 2001

西光寺池の改修に今田特産の丹波石を使って景観を復元した。

西光寺池が老朽化したので、多額の経費を投じて改修した。

洪水吐はもともと石積であった「先人の遺産を大事に継承したい」意向が強く、改修前以上の景観に復元した。

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