西光寺の遺跡名所めぐり

(Aコース)荒神社登山本道を登ると

①サギソウ自生地
 「源戸池」及び「西光寺池」附近の湿地にサギソウ自生地が皆さんの協力により保存されている。
サギソウは昭和52年に今田町の町花に制定している。
サギソウ自生地は全国で数県しかなく年々減少している。
そこで、サギソウの保護、増殖を図るため、全国サギソウシンポジュームを県輪番で開催している。平成5年には今田町で盛大に開催した。
篠山市合併後も稀少植物として、地元は勿論、篠山市サギソウ保存会、篠山市教育委員会、篠山市立今田小学校が保護増殖に力を入れている。


②西光寺池
 この池は古くから灌漑用の溜池で耕地約10haを養い農業生産に貢献している。
また、池の水は美しく澄み、清潔で鯉が放流されている。
周囲の山麓には「くぬぎ」「なら」などの広葉樹が多く点々と「つつじ」「赤松」が生育し春、夏、秋、冬に色とりどりの景観を演出している。
なお平成13年には、県営溜池改修事業により多額の経費を負担して改修した、特に洪水吐には今田特産の丹波石を張り、堅固さと自然美を引き立てている。


③山門跡
 ここにあった山門は、現在、今田新田の西方寺の山門として移築されたと言い伝えられている。ここには、西光寺金の鶏の民話が紹介され、金鶏山西光寺の由来などを知ることができる。

④山の神窟
 古代日本人は、高山には神が宿ると信じ、山麓と人間界の境に山の神を祀り、高山信仰の対象とした。
ここには、大山祇社(大山祇命)が祀られている。

⑤水含み場
 美しくて冷たい湧水は登山者の心身をうるおしてくれる。

⑥三滝
 右側の谷から三本の滝が静かに流れ落ちている。

⑦炭焼窯
 西光寺山は、「ウバメガシ」(デニゴメ)の植生北限で植物生態学的に注目されている。「ウバメガシ」の木炭は、備長炭といわれ良質なことで有名である。炭焼窯を平成5年に築き、広く炭焼体験を公募し都市住民との交流を図っている。

⑧登山案内標石
 荒神社登山本道の中腹に「右山道」、「左荒神道」の標石がある。何年頃に作られたか年代が刻まれていないが、荒神信仰が盛んであった昔を伝える遺標である。

⑨登山案内標
 右に登ると西光寺山頂を案内している。

⑩奥ノ院三宝荒神社
 三宝荒神の由来は、神道では火結神、沖津比古命、沖津比売命を穀物の守護の神という。また、佛教の佛法僧の三宝を護る荒神として祀られてきた。やがて、民間信仰として広がり、荒神は不浄を忌むので最も清潔なところであるとされ、「カマ」のあるところに神棚をつくり拝むようになった。「カマ」は生活の泉であることから、家内安全、商売繁盛の神様として庶民信仰の対象となった。
宝螺ケ山(真言宗)西光寺の廃寺後、多可郡の修験者が奥ノ院三宝荒神社に登り、毎年旧暦の7月荒神社に一夜寵り、翌朝御来光を拝み、大護摩をたく。この真言宗修験修業が昭和25年頃まで行われていたという。
また、その一方丹波、播磨は勿論、遠く摂津、但馬方面から参詣者が後を絶たなかったという。
元禄時代(16881703)にお賽銭の分配をめぐり、本荘と中畑がもめ、京都所司代に訴えたようである。中畑は徳川三家、紀州藩の支藩一橋家の飛地領である。
本荘は、親藩の篠山藩でも権力の差に勝てず、賽銭の分配は荒神社の修理と管理は中畑が持つということで、中畑は7割、本荘は3割の配分が決められたという。このことで、その当時の荒神社の盛況を伺うことができる。
なお、明治41年に本荘住吉神社に合祀されている。
昭和62年には、三宝荒神社は風雨にさらされ朽ち果て崩壊したので神山茂氏、神山一郎氏、立林和夫氏が再建された。また平成1235日には、西光寺山、三宝荒神社を西光寺山愛好会の方々により再建した。


(Bコース)寺坂道を登ると

①墓尾
 寺坂道を登りつめた辻の向うは、社町鴨川で尾根を少し登り、道を左に山腹を西に進み、直進した尾根の上が墓尾といわれ、このあたりは道巾が広くなっている。

②寺屋敷
 山頂より山腹を境にして、南斜面一帯に堂坊跡が点在する。本堂跡にド70㎝~1mの不変形の礎石が碁盤の目のように並び8間直角の堂があったことが立証される。
本堂は密教寺院独得の高床寄棟造りであったと考えられる。
本堂跡の西に、般若堂または阿弥陀堂ともいわれ寺坊跡がああり礎石が点在し、一列に整頓よく並ぶ軒石がある。
南に下ると・広い寺坊があり、ここからは急な坂となり、平石の石段がある。この道を下ると、杉の木で囲まれた宿坊跡があり寺屋敷の東隅に「井戸跡」がある。


②―1不老の泉
 寺屋敷の北隅に小さい池がある。昭和38年に立林和夫氏が不老の泉と命名した。ところが地形の変化か、今はなくなり山脈に泉が白糸のように噴き出し沢となり長岩へ注いでいる。

②―2弥三郎屋敷跡
 明治38年、本荘の畑弥三郎が寝小屋を造り、約9年間山寵り生活をした。当時、西光寺山は野山と言い、本荘村の者は自由に柴、炭焼き、肥刈り(当時は化学肥料がない時代で、堆肥をつくり肥料にした)ができた。
弥三郎は「五輪塚」一帯に散乱する墓石、五輪塔を一ヵ所に集め供養し、周囲に杉、桧を植え、「勝負池」を改修して、鯉、鮒を飼い、これを蛋白源とし、畠を耕し野菜などを栽培して自給自足の生活をした。
弥三郎が大正3(1915)8月、お盆近い夏の暑い日に何時ものように畠を耕していた。突然、後ろより「何時も精が出るのう」と声をかける者があり、振り向くとそこには、威容な姿の修験者があらわれ、白い髭を胸までたらし、真白い頭髪を腰まで伸ばし、高い一枚歯の下駄を履き、錫杖を持ち結袈裟を着て、法螺貝を下げて立っていた。
弥三郎は一瞬驚いたが、直に気を落ち着け、木の切株を腰掛けかわりにとすすめ、自分もそばに腰をおろすと、修験者が「この西光寺には、戦火に滅亡した僧侶や武士の多くの人が犠牲になり成仏できずにさまよっている。旧1223日に諸死精霊を供養したい。そこで汝に酒肴の用意を頼みたいのだが」という。
弥三郎は一つ返事で「お安い御用で」といい、煙草に1っぷく火をつけ、修験者の方を振り向くと、今ここに居た修験者の姿が消えた。
不思議なことがあるのと思いつつ、鍬を握ったところ、急に身振るいがして身体の調子が悪くなり山をおりた。その後、心臓病を患い、再び登山はかなわず約束を気にしながらこの世を去った。


②―3不動岩
 勝負池に流れる沢は、不動岩という大岩、高さ13.4mの根元から泉が湧き出している。この大岩の上に不動明王が祀られている。

②―4勝負谷
 寿永の昔、平家の残党がこの谷に陣をとり、攻め登る源氏に勝負を挑んだことから勝負谷といっている。

③五輪塚
 勝負谷を西に登ると五輪塚群である。ここは本荘と上鴨川の境である。

④洞ケ山西光寺諸死精霊供養碑
 畑弥三郎の約束した旧1223日を祭礼として毎年縁者が祀っていた。
昭和2325日に、寺屋敷山頂1に畑光太郎氏が洞ヶ山西光寺諸死精霊の供養碑を建立した。たまたま、本荘の荻野貞蔵氏が永く今田村長をつとめ、引退後、法華行者となられていた。
この供養碑の建立に協力された、本荘からこの土地8坪を借り受け、また供養碑には「御題目七文宇南無妙法蓮華経」と洞ヶ山西光寺諸死精霊と刻んでいる。


⑤奥ノ院三宝荒神社
 「釣瓶落」の急な坂を木の枝や根をすながりながら「金鶏があったといわれる跡」、「おおたわり」を下り西光寺主峰(標高713m)に登ると奥ノ院三宝荒神社である。

(Cコース)寺坂道から遠望すると

①袈裟ヶ谷
 この谷は寺坂道の左側の谷で、西光寺滅亡のとき山法師達が袈裟、法衣を脱ぎ捨て、逃走したといわれる。

②天狗岩
 この岩は、天狗が袈裟を忘れたといわれ、この附近には修験にふさわしいところが多い。

③灯明岩
 西光寺の小坊主達が肝試に毎夜ここに下り、灯明に火をつけ、暗い山道を通り宿坊に登ったといわれている。

④夫婦岩
 この岩は灯明岩の奥にあり大小岩が夫婦の如く仲良く抱き合うかのように立っている。

(Dコース)西脇市住吉町にも遺跡が多い

①引導岩
 尾根道の西が上鴨川と中畑との境になる。この道の西側が中畑で、五輪塚から交叉したところに大きい岩がある。この岩を長持ち岩または引導岩という。また、引導岩はこれより約40m下った右側が中畑足丸で、急な坂道のそばにある岩を引導岩といっている。引導岩は、中畑の伝説によれば、「昔、中畑に死人があったとき西光寺の僧侶が、この岩に立ち、引導を渡した」と伝えられている。

②弁慶の淡掛け岩
 西光寺山の西裏側には、大小の巨岩、奇岩が点在し修験者達が呪文を唱え、法螺貝を吹き、岩から岩へと跳び、荒修業を行った所である。中でも最も大きい岩が弁慶の淡掛岩といっている。
「弁慶」は熊野三山の別当分家、田辺別当家の法僧の子として生まれ、3才のとき比叡山に預けられた。成長するにつれて粗暴な振舞が多くなり、17才の時比叡山を破門となり、近畿内の天台宗寺院を転々とした。
清水寺にも堂修業をしたとの伝説があり、西光寺の荒修業に挑んだと考えられる。
その後、書写山に移り修行中、悪坊主と喧嘩となり、大火鉢に燃えていた燃木を投げたことから、火事になり折り悪く強風により全山焼失する。
「弁慶」は逃げ、京に潜伏中、京都五條大橋で「牛若丸」(義経)に出会う。この話は有名である。その後、義経の忠実な家来となり活躍した。
若かった当時の「弁慶」は、俺は熊野で修験した自負から西光寺修験道場に挑戦したのではないかと言われている。


③真言修験道場
 尾根道頂上の少し手前に平地があり、行者堂跡(一宇小堂跡)と言われている。
ここは、荘厳寺と朝光寺が金鶏山(天台宗)西光寺が滅亡後に、真言宗修験道場となし、法道より伝わる「法螺貝」を隠した金鶏山の山号を宝螺ヶ山と改めたという。
真言宗修験道場も江戸時代の始めに廃寺となった。
その後、西光寺の山麓の上鴨川では、日照り続きで日焼けの年には法螺貝をさがし、雨乞いをした。この秘法は明治の中頃まで行われていたといわれている。現在では、宝螺貝の隠し場所も、雨乞いの秘法も知る人もいなくなった。


④足丸谷
 供養碑のうしろ7mのところが足丸谷で吉野大峯山、三岳の覗きに匹敵するような絶壁となり荒修業が行われたところである。

⑤「南無妙法蓮華経」丹波西光寺大山宝塔
 西光寺山主峰を西に降ると中畑に伸びる支峰の尾根があり、この中程の尾根に、昭和40年に奈良県高田市、富田市、御所市、大阪府八尾市、柏原市に住む法華行者一行が「南無妙法蓮華経」丹波西光寺大山宝塔を建立した。
再興奉納願文に「法螺ヶ山西光寺三宝荒神」とある。
寺屋敷山頂の供養碑には「洞ヶ山西光寺」とある。これは金鶏山西光寺が滅びて、その後に真言修験道場として再興して「宝螺ケ山(真言宗)西光寺」となり、丹波側にも修業が伝わり法螺ヶ山が洞ヶ山の当字で呼ばれたものと思われる。


 
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