今田町の冷凍腐製造のはじまり
 今田町史より
凍豆腐のおこり
凍豆腐(高野豆腐)の先駆は一夜凍である。
白豆腐を一夜で凍らせて食べるので、一夜凍とよばれた。
高野山の僧侶が、ある夜白豆腐を野外に置き忘れ、翌朝になって見に行くと、カチカチに凍っていた。それを解凍して試食すると、とても風味があっておいしかったので、以来たびたび凍らせて食べるようになり、それが各地に広まったというのが、凍豆腐のはじまりとして、一般的に伝承されているものである。
この一夜凍を先駆として、これを乾燥してつくった高野豆腐の産地が高野山地方にいくつか生まれ、江戸時代末期の天保から嘉永にかけてそれが近畿地方に広がったといわれており、この乾物商品の製造は農家の副業として成長していった。

今田における凍豆腐製造のはじまり
このようにして、兵庫県では播磨国野間谷村(多可郡八千代町)とともに丹波国今田の産地が生まれたが、当時の凍豆腐の製法は冬期における天然冷凍によったため、いくつかの自然的立地条件が必要であった。すなわち、豆腐が凍結するための低気温が得られること、冬期の湿度が低く、晴天日数が多いこと、水と自然に恵まれていることなどの条件が不可欠であり、その点、今田地方は適格の条件を備えていた。
さて、今田町における凍豆腐製造の発祥地佐曾良新田は天保年間、小枕村(丹南町小枕)の団野記平治が開発し、天保12年(1841)、一村として独立した新開地であった。このため、地味が悪くて十分な収穫が得られず、当時、初田村(丹南町初田)から入植して耕作に従事していた酒井彌次右衛門は、土地を肥やす方法と収入不足を補う方途を探し求めていた。
今田町における凍豆腐製造の創始はこの酒井彌次右衛門によると伝えられているが、創業のいきさつについては諸説があり、決定づける資料に乏しい。
「凍豆腐の歴史」(昭和37年、全国凍豆腐工業協同組合連合会発行)によると、彌次右衛門はある日、市原の城山山麓で、売れ残った白豆腐を一夜凍にして販売しているのを見て、その製造を思い立った。
早速数人を雇い入れ、一夜凍をつくって播州方面へ行商したところ、かなりの成果をあげることができたため、翌年からは一夜凍のほかに、残品を乾燥して高野豆腐に仕上げて売り出したとある。
また、「兵庫県の工業、特産シリーズ」(昭和35年、兵庫県工業課発行)によると、彌次右衛門は紀州高野山方面で凍豆腐の製造技術を学んで帰り、少量の一夜凍を製造したのがはじまりであると述べている。
ともあれ、こうしてはじまった凍豆腐の製造は次第に地域に広まり、江戸時代末期には十数の製造業者が生まれたという。
一方、豆腐の製造によって生じた豆腐粕(おから)は田へ投入して肥料として使用したため、数年の間に土地の肥沃度は向上したと伝えられる。


凍豆腐製造の盛衰
凍豆腐製造の発展

酒井彌次右衛門の創業による凍豆腐の製造者はその後年々増加し、明治時代に入ったころには農閑期における副業として定着するようになった。
「多紀郡地誌」によると、明治16年(1883)ごろの産地は今田、佐曾良新田、今田新田を主産地として、本荘、市原、四斗谷、上小野原、下小野原、休場などにおいて製造され、製造数は500荷(1万個をもって1荷とする)、播磨地方、京都、大阪、神戸へ輸出販売すると記されている。
また、明治29年、多紀郡役所刊の「多紀郡治一班」によると、「明治二十八年凍豆腐製造組合創設、組合員数二十四人」と発展し、日清・日露戦争には軍隊の食料としても重宝がられたため、製造業者も増加して活況を呈した。
大正7年(1918)刊の「多紀郡誌」によれば「凍豆腐ㇵ今田村
十八戸、後川村二戸、福住村一戸製造家アリ。今田村凍豆腐原料八分清国(中国)牛荘、二分朝鮮、製品トシテ神戸輸出。神戸ニテハ凍豆腐今田産トシテ販売。」とある。

不況等による衰退
昭和に入って不況がおとずれたことや、冷凍を天然に依存する関係で、天候によっては不凍となり、一夜にして大欠損を招く年もあったことなどから、廃業者が増加した。
また、昭和初期頃までの長野県における凍豆腐業界の市場占有率は低かったが、昭和に入って地場産業振興対策が充実し、業者の資本合同による生産効率の向上がめざましかったことも影響して、今田町の業者は年々減少の一途をたどるようになった。
「兵庫県統計書」によると、昭和5年(1930)には製造業者10、従業者69にまで減少し、以後、この御者数はかつての数に回復することはなかった。


戦時統制経済のもとで
昭和12年に日中戦争が勃発して以来、戦争が長期化し拡大するにつれて経済統制の圧迫を受け、原料である大豆は主要食料であるため、すべて割り当て配給制となった。
このため、今田町の業者は多可郡野間谷村の兵庫県凍豆腐工業組合に加入し、原料大豆や消耗品等の割り当て配給を受けた。
戦争激化に伴って統制はさらにきびしくなり、兵庫県凍豆腐統制組合が発足して統制規定が設けられた。これによると、割り当て品は大豆、ろ過布、塩化カルシウム、製品の販売は組合に委託することなど、きびしい制限を受けたのである。
こうした製品の自由販売のみでなく、豆腐カスついても統制され、県内の需要者へ割り当て配給されたのであった。この豆腐カスは、明治末期ごろから牛の飼料として用いられ、肥育牛飼養の発達を促してきたが、戦後は酪農の発達によって町内での需要も多かった。


戦後の衰退
戦後の疲弊からようやく立ち直った昭和26年(1951)、黒石の玉椿・丹波朝日・白藤、今田の富士・敷島・山吹、今田新田の白梅、佐曾良新田の八重桜の各工場8業者によって今田村凍豆腐工業協同組合が結成され、戦後の本格的な復興が始まった。昭和24年から逐次天然冷凍から機械冷凍へと製法転換が行われて通年生産が可能となり、昭和30年代に入ると、生産額は戦前の5倍に増加するなど、発展の軌道に乗った。
ところが、昭和30年代の半ばごろから、長野県の凍豆腐製造業界のめざましい市場進出の影響を受け、今田町の業界は苦しい経営を強いられ始めた。さらに、昭和40年代に入ると、一般産業界の躍進による労働力の需要増によって当業界の労働力確保が至難となるほか、食生活の変遷等も加わって、小規模である今田町の工場はきびしい経営環境におかれることになった。
こうした状況の中で、昭和40年には富士、42年には白梅、44年には八重桜、46年には山吹、48年には敷島と、廃業のやむなきに至った工場が続出した。
以後、存続する工場は黒石の3工場のみとなったが、このうち白藤は昭和45年から、丹波朝日は昭和47年からそれぞれ白豆腐や油揚げなどの製造販売へ転換を図り、旧来の凍豆腐製造を維持しているのは玉椿のみとなった。しかし、平成に入ってから、後継者がなくなり廃業となってしまい、現在は凍豆腐の製造は今田からなくなってしまった。
今後は、長年積み重ねられてきた、凍豆腐の製造技術をいかにして保存すらかが問われている。


労務者
灘・西宮における酒造業を支えてきた丹波杜氏と同じように、今田町における凍豆腐の製造と発展にも、それに携わってきた窯元や職人などの労務者がある。
製造業者が増加し、製造規模が大きくなるにつれて、地元では労働力が充足できなかった。そこで、労務を担当することになったのが但馬の人たちであった。
今田町の製造工場における労務者のほとんどが美方郡からの出稼ぎ者であった。但馬の冬期は積雪のために、農閑期の副業を求めて各地に出稼ぎに出かけたが、今田町は近距離にあったことから、毎年多くの労務者を充足することができたのである。統制経済下の昭和15年でも、各工場6~10人が製造労務を担当した。
また、昭和38年より、今田町に移住した九州及び北海道の炭鉱離職者が就労した一時期もあった。
こうした古来から伝統のあった但馬からの労務者も、昭和40年代における製造業者の相次ぐ廃業とともに消滅してしまった。


製法の変遷
天然冷凍から機械冷凍へ
白豆腐を夜間野外に出して天然冷凍させた一夜凍を、薪によって火力乾燥する時代が長く続いた。
しかし、いかに天然冷凍製法の自然的立地条件下にある今田町といえども、日によっては氷点下に至らぬ暖夜や夜中に雨が降り出す日もあり、そのときの気象状況によっては一夜にして大損失を受けることもあった。
そこで、大正の初め、4工場が冷凍機を共同設置して製法の画期的な転換を試みたが、動力不足のために不凍品が多く、残念せざるを得なかった。
昭和23年には数十年来の暖冬のために寒波が到来せず、製造された白豆腐は腐敗するという事態が生じ、業者は途方に暮れた。そこで、白豆腐を貨物自動車に積んで毎日西宮まで運び、乳業会社に依頼してつくってもらった一夜凍を翌朝持ち帰るちう方途を講じた日が何日も続いた。
こうしたことから、冷凍の機械化がいかに必要であるかが痛感され、昭和24年の2工場を先駆に、27年にはすべての工場が冷凍機を装備することになったのであった。この冷凍機の導入によって、天然冷凍による冬期生産から人口冷凍による通年生産へと大きく変貌したのである。

天然冷凍・早朝の一夜凍の取り入れ風景
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