今田の地名
地名の由来 
 現在の今田町は古代律令制度のもとで「小野原郷」とか、摂津住吉神社の荘園であったところから「小野原庄」と呼ばれていた。
その後、豊臣秀吉から5万石を与えられて八上城主となった前田玄以が、この郷・庄を廃して村を置いたが、八上藩最後の「慶長13年(1608)、丹波多紀郡桑田津之国帳」に出る今田は、「市原上ノ村」「市原村」「市原ノ内古津村」「小野原村」「小野原ノ内立杭村」で、このころまでの地名や村名に「今田」はない。

慶安2年(1649)、第4代篠山藩主となった松平康信は地方行政確立のために藩政を改革し、領内の支配区分を定めた。すなわち、多紀郡を三区分して「上組」「中組」「南組」とし、さらにその下に小組として18組を大村としたが、このとき今田は南組に属し、小組名として「今田組」とされたのが「今田」の地名の始まりである。
この「今田組」は大村名であり、当時の今田地内全村の総称であった。

ところで、この「今田」という地名の由来であるが、小野原は小野原であり、小野原から小野田、小野田から今田となったのであろうという説。

また、松平康信が藩政改革を行う少し前、今田新田や芦原新田を開発した波多野源右衛門が「今田源右衛門」と称したが、これが小野田を改めたものではないか。
当時藩の地方支配役として今田地方を支配していたことと、改革による「今田組」という呼称の由来にかかわりがあるのではないかなどの説があるが、由来は定かでない。

明治22年(1889)、町村制の施行によって旧19か村が合併し、「今田村」として一村となったが、この村名は旧「今田組」に由来する。

 

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